恋は死よりも強し

「恋は死よりも強し」と云うのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(勿論死に対する情熱は例外である。)且つ又恋はそう云うもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶に断言は出来ないらしい。一見、死よりも強い恋と見做され易い場合さえ、実は我我を支配しているのは仏蘭西人の所謂ボヴァリスムである。我我自身を伝奇の中の恋人のように空想するボヴァリイ夫人以来の感傷主義である。



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