「虹霓関」を見て

 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。――ショウは「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必しもショウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳(メイランファン)の「虹霓関(こうげいかん)」を見、支那にも既にこの事実に注目した戯曲家のあるのを知った。のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を(とら)えるのに孫呉の兵機と剣戟(けんげき)とを用いた幾多の物語を伝えている。
董家山(とうかざん)」の女主人公金蓮、「轅門斬子(えんもんざんし)」の女主人公桂英、「双鎖山(そうさざん)」の女主人公金定等は(ことごとく)こう言う女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上に(とりこ)にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言うのを無理に結婚してしまうのである。胡適(こてき)氏はわたしにこう言った。――「わたしは『四進士』を除きさえすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆(らいてい)の怒を和げる(わけ)には行かないであろうか?



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