好悪

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。(ただ)我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、(まさ)(おぼ)れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に()ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ(はず)である。いや、この二つの快不快は全然相容(あいい)れぬものではない。(むし)鹹水(かんすい)と淡水とのように、一つに()()っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を(すす)った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? (かつ)又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの(のろ)うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教(キリストきょう)の聖人たちは大抵マソヒズムに(かか)っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人(ギリシアじん)の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を()()らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと(なか)れ。』耶蘇(やそ)さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟(ひっきょう)荊蕀(けいきょく)(みち)にも、薔薇(ばら)の花を咲かせるもののことである。



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