椎の葉

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは(ただ)如何に幸福に絶望するかと云うことのみである。
(いへ)にあれば()にもる(いひ)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたったばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取って見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。
 椎の葉の椎の葉たるを(たん)ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに()まないのは滑稽(こっけい)であると共に不道徳である。実際又偉大なる厭世(えんせい)主義者は渋面ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディさえ、時には(あお)ざめた薔薇(ばら)の花に寂しい頬笑(ほほえ)みを浮べている。……
 追記 不道徳とは過度の異名である。



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