わたし

 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

   又

 わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交っていなかったことはない。

   又

 わたしは度たびこう思った。――「俺があの女に惚れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌いになった時にはあの女も俺を嫌いになれば善いのに。」

   又

 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯ちょっと肚の中に算盤をとることを覚えたからである。

   又

 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟だった。

   又

 わたしは度たび嘘をついた。が、文字にする時は兎に角、わたしの口ずから話した嘘はいずれも拙劣を極めたものだった。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかし第三者が幸か不幸かこう云う事実を知らずにいる時、何か急にその女に憎悪を感ずるのを常としている。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかしそれは第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、或は極く疎遠の間がらであるか、どちらかであることを条件としている。

   又

 わたしは第三者を愛する為に夫の目を偸んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。

   又

 わたしを感傷的にするものは唯無邪気な子供だけである。

   又

 わたしは三十にならぬ前に或女を愛していた。その女は或時わたしに言った。――「あなたの奥さんにすまない。」わたしは格別わたしの妻に済まないと思っていた訣ではなかった。が、妙にこの言葉はわたしの心に滲み渡った。わたしは正直にこう思った。――「或はこの女にもすまないのかも知れない。」わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じている。

   又

 わたしは金銭には冷淡だった。勿論食うだけには困らなかったから。

   又

 わたしは両親には孝行だった。両親はいずれも年をとっていたから。

   又

 わたしは二三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、をついたことは一度もなかった。彼等も亦嘘をつかなかったから。



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